富士山中最古の社。
文武天皇3年(699年)に藤原義忠によって霊山富士二合目に奉斉されたと伝えられる。
その後708(和銅1)年に祭場の形を造り、720(養老4)、807(大同2)年に雨屋、社殿を創建された。
富士噴火のため焼失したが、その後、しばしば再興、増設された。社名の「御室」は、かつて祭祀を石柱をめぐらせた中で執り行っていたことによるものである。中世には修験道、近世には富士講と結びついて発展し、特に戦国時代には甲斐武田家三代に渡り崇敬を受け、武田信玄公直筆の安産祈願文を始め、多数の古文書が今も保管されている。現在の本殿は、慶長17年(1612年)に徳川家の家臣の鳥居成次によって建てられたものである。その後4回の大改修を経て、昭和48年(1973年)に富士山二合目から現在地に遷座された。構造は、一間社母屋造り、向拝唐破風造りで、屋根は檜皮茸形銅板茸きであり、桃山時代の特徴をもっている。国の重要文化財に指定されている。
564年1561年の間。
法華宗の僧によって書き継がれたといわれ、山梨県の中世を研究する上で一級の資料である。
ほぼ毎年のように戦や災害が起こっていたこと、そのために多くの人々が犠牲になっていた事を克明に記している。
その一方で、川除(永禄2年)や用水路の開設(天文23年)など、この地域の人々が様々な開発によって生活の安定を保とうとしていたことがうかがえる。
晴信(信玄)が武田・北条・今川の三国同盟のため北条氏政に嫁がした長女黄梅院の安産を願い当社に奉納した願文。
願いがかなえば船津の関所を開放すると記している。
黄梅院は氏政との間に北条家五代目当主となった氏直などを生んでいる。
信虎、信玄、勝頼の武田家三代及び家臣をはじめ、武田家滅亡後統治した徳川の臣の印判状、許定書、指令状等。
富士河口湖指定文化財
武田信玄目刻といわれ、戦国時代の武将らしさのある剛健な姿。
聖徳太子は富士山最初の登山者といわれる。
増派乗馬姿で江戸時代初期の作といわれている。
角行は、富士講の祖。
像は、富士講行者「村上光清」の菩提寺である駒込の専修院に祀られていたが、 角行没200年にあたる1845年(弘化2年)に報恩のため当社へ奉納したもの。
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